短歌の歴史

万葉集から令和まで、千年以上つづく5・7・5・7・7
〜日々、三十一音のひとりごと文藝〜

公開日: 2026年9月5日 / 更新日: 2026年9月5日

短歌の歴史|万葉集から令和まで、千年以上つづく5・7・5・7・7

「短歌って、いつからあるの?」

「万葉集って聞いたことはあるけど、短歌と関係あるの?」

短歌のルーツは、とても古いところにあります。現存する日本最古の歌集『万葉集』には、すでに5・7・5・7・7の歌が数多く収められています。

そこから令和のいままで、5・7・5・7・7を基本とする歌が、千年以上にわたって詠まれてきました。これは、世界を見てもめずらしいことです。

ただし、詠まれる中身や言葉は、時代ごとに変わってきました。この記事では、その山と流れをたどります。

この記事で分かること

  • 短歌がいつからあるのか
  • 万葉集・古今和歌集・新古今和歌集のちがい
  • 短歌が大きく変わった瞬間(明治の短歌革新)
  • 短歌が大きく動かなかった時代に、何が盛んだったのか
  • 時代ごとの代表的な歌人(年表つき

万葉集|天皇から農民まで、みんなが詠んだ

短歌の歴史をたどるとき、まず出てくるのが『万葉集』(まんようしゅう)です。

いつ7世紀後半〜8世紀後半にかけて編纂
大きさ全20巻・約4,500首
編者はっきり分からない。大伴家持(おおとものやかもち)が関わったとされる

現存する、日本でいちばん古い歌集です。

大きな特徴は、詠んだ人の幅の広さです。天皇や貴族だけでなく、名もない人の歌まで収められています。詠まれた土地も、東北から九州まで広がっています。

代表的な歌人として、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良(やまのうえのおくら)が知られています。

そこに詠まれているのは、自然や恋、家族、旅——つまり、人の暮らしと気持ちです。

短歌の世界には、はじめから人の暮らしがありました。

古今和歌集|はじめての勅撰和歌集

平安時代になると、和歌は貴族の教養として重んじられるようになります。

905年醍醐天皇(だいごてんのう)の命でつくられたのが『古今和歌集』(こきんわかしゅう)です。

※905年は命令が出た年です。完成した年は、913〜914年とする説もあります。

勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう) = 天皇の命令でつくられた歌集

『古今和歌集』は、その最初の一冊です。全20巻。

編んだのは4人。紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)です。中心になったのが紀貫之で、有名なかな序(仮名序)も書いています。

この時代には、小野小町(おののこまち)や和泉式部(いずみしきぶ)など、恋や心情を詠んだ歌人も活躍しました。

思ったことをそのまま言うのではなく、言葉を工夫して伝える歌が多く詠まれた時代です。

新古今和歌集|上皇が自ら歌を選んだ

鎌倉時代のはじめ、1205年に完成したのが『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)です。

命じたのは後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)。めずらしいのは、上皇自身が、たくさんの歌の中から選んだことです。分類や編集の作業を藤原定家(ふじわらのていか)たちが受け持ちました。

この時代の歌は、静かで、奥深く、余韻があるのが特徴です。

歌人としては、旅や自然、人生を詠んだ西行(さいぎょう)も知られています。

百人一首も、この時代です

「百人一首(ひゃくにんいっしゅ)って、短歌なの?」と思ったことはありませんか。

百人一首は、100人の歌人の和歌を1首ずつ集めたものです。

100首すべてが5・7・5・7・7。いまの言い方をすれば、短歌のアンソロジー(作品集)です。

そして選んだのは、藤原定家。『新古今和歌集』の撰者(せんじゃ)の一人でもあります。

1205年『新古今和歌集』ができる
1235年百人一首を選ぶ

30年後に、もう一度100首を選んでいるのです。

きっかけは、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)という人から頼まれたことでした。京都・嵯峨野の山荘の障子に貼る色紙のために、昔からの歌人の歌を1首ずつ選んでほしい——そう頼まれて選んだのが、この100首です。

山荘があった場所が小倉山だったので、『小倉百人一首』と呼ばれます。

※小倉あんの「小倉」も、同じ小倉山から来ているといわれます。

勅撰和歌集とは、ここが違います

『古今和歌集』や『新古今和歌集』は、天皇の命令でつくられました。バランスを考えて選ぶ必要があります。

百人一首は違います。天皇の命令ではなく、頼まれて選んだ「私撰(しせん)」の歌集です。バランスを気にする必要がないので、定家の好みで選べました。だから、100首のうち恋の歌が46首。秋の歌は15首。かたよっているのです。

※歌の数え方は、分類のしかたによって多少変わります。

そのかたよりが、そのまま定家という人の好みです。

かるたになったのは、ずっとあと

いまは「百人一首=かるた」というイメージがありますが、かるたとして親しまれるようになったのは江戸時代からです。定家が選んだときは、かるたではなく色紙でした。

短歌は止まっていた?|連歌と狂歌の時代

ここで、正直な話をします。

室町から江戸にかけて、この記事に出てくるような大きな出来事は、しばらく出てきません。

では、短歌は止まっていたのでしょうか。

いいえ。「何もなかった」わけではありません。別のものが盛んだったのです。

室町時代|連歌の時代

複数の人が交代で句をつないでいく連歌(れんが)が盛んになりました。代表的な連歌師が宗祇(そうぎ)です。

宗祇は連歌の人ですが、和歌も学んでいます。46歳のとき、古今伝授(こきんでんじゅ)を受けました。

古今伝授 = 『古今和歌集』の読み方を口伝えで受け継ぐしくみ

安土桃山時代|受け継いだ人がいた

武将でありながら和歌や古典に詳しかったのが細川幽斎(ほそかわゆうさい)です。

幽斎は、宗祇から三条西家(さんじょうにしけ)へと伝わった古今伝授を受け継ぎました。戦の時代というイメージがありますが、その裏で歌の読み方が人から人へ手渡されていたのです。

この節のはじめに「短歌は止まっていたのか」と問いました。答えは、受け継ぐ人がいた時代だったということです。

江戸時代|狂歌が流行った

江戸時代には、狂歌(きょうか)という文芸が盛んになりました。

狂歌は、短歌と同じ5・7・5・7・7を使いながら、暮らしや世の中の出来事を面白おかしく詠むものです。

18世紀半ば、江戸では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)や大田南畝(おおたなんぽ)らを中心に、狂歌がいちばん盛り上がった時期を迎えます。

まじめな恋や自然だけでなく、暮らしも流行も社会も、歌の題材になりました。

つまり、5・7・5・7・7という形は、昔からいろいろな使われ方をしてきたということです。

正岡子規|短歌が大きく変わった瞬間

明治になって、短歌の世界に大きな変化が起こります。その中心にいた一人正岡子規(まさおかしき)です。

1898年(明治31年)、子規は新聞「日本」に『歌よみに与ふる書』(うたよみにあたうるしょ)を10回にわたって発表しました。

子規はこの中で、古今和歌集を手本にしていた当時の歌壇をはげしく批判しました。なかでも有名なのが、次の一文です。

貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて
古今集はくだらぬ集に有之候(これありそうろう)

=「紀貫之は下手な歌よみで、古今集はくだらない歌集です」

千年ものあいだ手本とされてきた歌集に対して「くだらぬ集」と言い切ったのです。当時としては、かなり過激な発言でした。

では、子規は何を目指したのか。

古今和歌集のような、こねくり回した歌ではなく、
万葉集のように、実際に見たものをよく観察して詠もう。

これを「写生(しゃせい)」といいます。目の前のものをよく見て、その姿や感じたことを言葉にする、という考え方です。

この文章は、当時の若い人たちを強く動かしました。伊藤左千夫や長塚節など、多くの歌人がここから生まれています。

ここが、いまの短歌につながる大きな分かれ目の一つです。

※このサイトの句切れの記事で紹介している「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の……」は、子規の歌です。まさに、目の前の薔薇を写生した一首です。

近代から現代へ|啄木・晶子・そして俵万智さん

与謝野晶子『みだれ髪』(1901年)

『歌よみに与ふる書』の3年後、与謝野晶子(よさのあきこ)の第一歌集『みだれ髪』(みだれがみ)が出ます。399首。

激しい情熱と大胆な表現の恋の歌が、世の中を騒がせました。

石川啄木『一握の砂(いちあくのすな)』(1910年)

石川啄木(いしかわたくぼく)の第一歌集。551首。

この歌集には、大きな特徴があります。一首を3行に分けて書いたのです。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

短歌は、5・7・5・7・7に分けて書かなければならないものではありません。一行で書いても、3行で書いてもいい。啄木は、その自由を早くから使っていました。

※書き方については短歌とは?で説明しています。

俵万智さん『サラダ記念日』(1987年)

そして昭和の終わり。俵万智(たわらまち)さんの第一歌集『サラダ記念日』が出ます。434首。

恋愛や日常生活をふだんの話し言葉に近い言葉で詠みました。

この歌集は、280万部売れ、その年のベストセラー1位になっています。歌集としては、けたはずれの数字です。

「短歌は古い言葉で作るもの」というイメージが、ここで変わりました。

令和|スマホから一首

いまは、SNSで自分の歌を投稿したり、人の歌を読んだりできます。木下龍也(きのしたたつや)さん岡野大嗣(おかのだいじ)さんなど、現代の言葉で詠む歌人も注目されています。

短歌は、歌人だけのものではありません。スマートフォンで思いついた一首を投稿する。そんな楽しみ方もできる時代です。

年表|時代ごとに見る短歌

ここまでの流れを一枚の表にまとめます。短歌が大きく動かなかった時代に、何が盛んだったのかも入れました。

時代主な人そのころ盛んだったもの
奈良
710〜794年
柿本人麻呂
山上憶良
大伴家持
『万葉集』。天皇から名もない人まで詠んだ
平安
794〜1185年
紀貫之
小野小町
和泉式部
『古今和歌集』(905年)。和歌が宮廷の教養に
鎌倉
1185〜1333年
後鳥羽上皇
藤原定家
西行
『新古今和歌集』(1205年)
百人一首(1235年)
室町
1336〜1573年
宗祇連歌。何人かで句をつないでいく
安土桃山
1573〜1603年
細川幽斎古今伝授。歌の読み方を人から人へ
江戸
1603〜1868年
大田南畝
唐衣橘洲
狂歌。同じ5・7・5・7・7で、面白おかしく
明治
1868〜1912年
正岡子規
与謝野晶子
石川啄木
短歌革新。写生へ。近代短歌がはじまる
大正
1912〜1926年
斎藤茂吉
北原白秋
若山牧水
近代短歌が広がる
昭和
1926〜1989年
寺山修司
塚本邦雄
俵万智
表現がさまざまに分かれていく
『サラダ記念日』(1987年・昭和62年)
平成
1989〜2019年
穂村弘
岡井隆
話し言葉の短歌が広がる
令和
2019年〜
木下龍也
岡野大嗣
SNS。スマホから一首

※年表は敬称略です。

※時代の区切りの年は、教科書などで広く使われているものです。研究者によって少し違う見方もあります。

まとめ

短歌は、『万葉集』の時代から令和まで、同じ5・7・5・7・7でつづいています。

そのあいだに、いろいろなことがありました。

天皇も農民も詠んだ(万葉集

貴族の教養になった(古今和歌集

連歌や狂歌が盛んな時代もあった

見たままを詠もう、と変わった(正岡子規

話し言葉で詠むようになった(俵万智さん

スマホから投稿する(いま

5・7・5・7・7を基本とする形は、受け継がれてきました。変わったのは、詠む人の暮らしのほうです。

昔の人が恋や自然を詠んだように、私たちも今日の出来事を詠むことができます。

千年以上、たくさんの人がこの31音を使ってきました。その続きに、私たちの一首があります。

シトロンただいま旅の途中(経理の計算ツール集)