短歌の歴史
万葉集から令和まで、千年以上つづく5・7・5・7・7
〜日々、三十一音のひとりごと文藝〜
「短歌って、いつからあるの?」
「万葉集って聞いたことはあるけど、短歌と関係あるの?」
短歌のルーツは、とても古いところにあります。現存する日本最古の歌集『万葉集』には、すでに5・7・5・7・7の歌が数多く収められています。
そこから令和のいままで、5・7・5・7・7を基本とする歌が、千年以上にわたって詠まれてきました。これは、世界を見てもめずらしいことです。
ただし、詠まれる中身や言葉は、時代ごとに変わってきました。この記事では、その山と流れをたどります。
この記事で分かること
- 短歌がいつからあるのか
- 万葉集・古今和歌集・新古今和歌集のちがい
- 短歌が大きく変わった瞬間(明治の短歌革新)
- 短歌が大きく動かなかった時代に、何が盛んだったのか
- 時代ごとの代表的な歌人(年表つき)
万葉集|天皇から農民まで、みんなが詠んだ
短歌の歴史をたどるとき、まず出てくるのが『万葉集』(まんようしゅう)です。
| いつ | 7世紀後半〜8世紀後半にかけて編纂 |
| 大きさ | 全20巻・約4,500首 |
| 編者 | はっきり分からない。大伴家持(おおとものやかもち)が関わったとされる |
現存する、日本でいちばん古い歌集です。
大きな特徴は、詠んだ人の幅の広さです。天皇や貴族だけでなく、名もない人の歌まで収められています。詠まれた土地も、東北から九州まで広がっています。
代表的な歌人として、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良(やまのうえのおくら)が知られています。
そこに詠まれているのは、自然や恋、家族、旅——つまり、人の暮らしと気持ちです。
短歌の世界には、はじめから人の暮らしがありました。
古今和歌集|はじめての勅撰和歌集
平安時代になると、和歌は貴族の教養として重んじられるようになります。
905年、醍醐天皇(だいごてんのう)の命でつくられたのが『古今和歌集』(こきんわかしゅう)です。
※905年は命令が出た年です。完成した年は、913〜914年とする説もあります。
勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう) = 天皇の命令でつくられた歌集
『古今和歌集』は、その最初の一冊です。全20巻。
編んだのは4人。紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)です。中心になったのが紀貫之で、有名なかな序(仮名序)も書いています。
この時代には、小野小町(おののこまち)や和泉式部(いずみしきぶ)など、恋や心情を詠んだ歌人も活躍しました。
思ったことをそのまま言うのではなく、言葉を工夫して伝える歌が多く詠まれた時代です。
新古今和歌集|上皇が自ら歌を選んだ
鎌倉時代のはじめ、1205年に完成したのが『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)です。
命じたのは後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)。めずらしいのは、上皇自身が、たくさんの歌の中から選んだことです。分類や編集の作業を藤原定家(ふじわらのていか)たちが受け持ちました。
この時代の歌は、静かで、奥深く、余韻があるのが特徴です。
歌人としては、旅や自然、人生を詠んだ西行(さいぎょう)も知られています。
百人一首も、この時代です
「百人一首(ひゃくにんいっしゅ)って、短歌なの?」と思ったことはありませんか。
百人一首は、100人の歌人の和歌を1首ずつ集めたものです。
100首すべてが5・7・5・7・7。いまの言い方をすれば、短歌のアンソロジー(作品集)です。
そして選んだのは、藤原定家。『新古今和歌集』の撰者(せんじゃ)の一人でもあります。
| 1205年 | 『新古今和歌集』ができる |
| 1235年 | 百人一首を選ぶ |
30年後に、もう一度100首を選んでいるのです。
きっかけは、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)という人から頼まれたことでした。京都・嵯峨野の山荘の障子に貼る色紙のために、昔からの歌人の歌を1首ずつ選んでほしい——そう頼まれて選んだのが、この100首です。
山荘があった場所が小倉山だったので、『小倉百人一首』と呼ばれます。
※小倉あんの「小倉」も、同じ小倉山から来ているといわれます。
勅撰和歌集とは、ここが違います
『古今和歌集』や『新古今和歌集』は、天皇の命令でつくられました。バランスを考えて選ぶ必要があります。
百人一首は違います。天皇の命令ではなく、頼まれて選んだ「私撰(しせん)」の歌集です。バランスを気にする必要がないので、定家の好みで選べました。だから、100首のうち恋の歌が46首。秋の歌は15首。かたよっているのです。
※歌の数え方は、分類のしかたによって多少変わります。
そのかたよりが、そのまま定家という人の好みです。
かるたになったのは、ずっとあと
いまは「百人一首=かるた」というイメージがありますが、かるたとして親しまれるようになったのは江戸時代からです。定家が選んだときは、かるたではなく色紙でした。
短歌は止まっていた?|連歌と狂歌の時代
ここで、正直な話をします。
室町から江戸にかけて、この記事に出てくるような大きな出来事は、しばらく出てきません。
では、短歌は止まっていたのでしょうか。
いいえ。「何もなかった」わけではありません。別のものが盛んだったのです。
室町時代|連歌の時代
複数の人が交代で句をつないでいく連歌(れんが)が盛んになりました。代表的な連歌師が宗祇(そうぎ)です。
宗祇は連歌の人ですが、和歌も学んでいます。46歳のとき、古今伝授(こきんでんじゅ)を受けました。
古今伝授 = 『古今和歌集』の読み方を口伝えで受け継ぐしくみ
安土桃山時代|受け継いだ人がいた
武将でありながら和歌や古典に詳しかったのが細川幽斎(ほそかわゆうさい)です。
幽斎は、宗祇から三条西家(さんじょうにしけ)へと伝わった古今伝授を受け継ぎました。戦の時代というイメージがありますが、その裏で歌の読み方が人から人へ手渡されていたのです。
この節のはじめに「短歌は止まっていたのか」と問いました。答えは、受け継ぐ人がいた時代だったということです。
江戸時代|狂歌が流行った
江戸時代には、狂歌(きょうか)という文芸が盛んになりました。
狂歌は、短歌と同じ5・7・5・7・7を使いながら、暮らしや世の中の出来事を面白おかしく詠むものです。
18世紀半ば、江戸では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)や大田南畝(おおたなんぽ)らを中心に、狂歌がいちばん盛り上がった時期を迎えます。
まじめな恋や自然だけでなく、暮らしも流行も社会も、歌の題材になりました。
つまり、5・7・5・7・7という形は、昔からいろいろな使われ方をしてきたということです。
正岡子規|短歌が大きく変わった瞬間
明治になって、短歌の世界に大きな変化が起こります。その中心にいた一人が正岡子規(まさおかしき)です。
1898年(明治31年)、子規は新聞「日本」に『歌よみに与ふる書』(うたよみにあたうるしょ)を10回にわたって発表しました。
子規はこの中で、古今和歌集を手本にしていた当時の歌壇をはげしく批判しました。なかでも有名なのが、次の一文です。
貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて
古今集はくだらぬ集に有之候(これありそうろう)
=「紀貫之は下手な歌よみで、古今集はくだらない歌集です」
千年ものあいだ手本とされてきた歌集に対して「くだらぬ集」と言い切ったのです。当時としては、かなり過激な発言でした。
では、子規は何を目指したのか。
古今和歌集のような、こねくり回した歌ではなく、
万葉集のように、実際に見たものをよく観察して詠もう。
これを「写生(しゃせい)」といいます。目の前のものをよく見て、その姿や感じたことを言葉にする、という考え方です。
この文章は、当時の若い人たちを強く動かしました。伊藤左千夫や長塚節など、多くの歌人がここから生まれています。
ここが、いまの短歌につながる大きな分かれ目の一つです。
※このサイトの句切れの記事で紹介している「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の……」は、子規の歌です。まさに、目の前の薔薇を写生した一首です。
近代から現代へ|啄木・晶子・そして俵万智さん
与謝野晶子『みだれ髪』(1901年)
『歌よみに与ふる書』の3年後、与謝野晶子(よさのあきこ)の第一歌集『みだれ髪』(みだれがみ)が出ます。399首。
激しい情熱と大胆な表現の恋の歌が、世の中を騒がせました。
石川啄木『一握の砂(いちあくのすな)』(1910年)
石川啄木(いしかわたくぼく)の第一歌集。551首。
この歌集には、大きな特徴があります。一首を3行に分けて書いたのです。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
短歌は、5・7・5・7・7に分けて書かなければならないものではありません。一行で書いても、3行で書いてもいい。啄木は、その自由を早くから使っていました。
※書き方については短歌とは?で説明しています。
俵万智さん『サラダ記念日』(1987年)
そして昭和の終わり。俵万智(たわらまち)さんの第一歌集『サラダ記念日』が出ます。434首。
恋愛や日常生活をふだんの話し言葉に近い言葉で詠みました。
この歌集は、280万部売れ、その年のベストセラー1位になっています。歌集としては、けたはずれの数字です。
「短歌は古い言葉で作るもの」というイメージが、ここで変わりました。
令和|スマホから一首
いまは、SNSで自分の歌を投稿したり、人の歌を読んだりできます。木下龍也(きのしたたつや)さんや岡野大嗣(おかのだいじ)さんなど、現代の言葉で詠む歌人も注目されています。
短歌は、歌人だけのものではありません。スマートフォンで思いついた一首を投稿する。そんな楽しみ方もできる時代です。
年表|時代ごとに見る短歌
ここまでの流れを一枚の表にまとめます。短歌が大きく動かなかった時代に、何が盛んだったのかも入れました。
| 時代 | 主な人 | そのころ盛んだったもの |
|---|---|---|
| 奈良 710〜794年 | 柿本人麻呂 山上憶良 大伴家持 | 『万葉集』。天皇から名もない人まで詠んだ |
| 平安 794〜1185年 | 紀貫之 小野小町 和泉式部 | 『古今和歌集』(905年)。和歌が宮廷の教養に |
| 鎌倉 1185〜1333年 | 後鳥羽上皇 藤原定家 西行 | 『新古今和歌集』(1205年) 百人一首(1235年) |
| 室町 1336〜1573年 | 宗祇 | 連歌。何人かで句をつないでいく |
| 安土桃山 1573〜1603年 | 細川幽斎 | 古今伝授。歌の読み方を人から人へ |
| 江戸 1603〜1868年 | 大田南畝 唐衣橘洲 | 狂歌。同じ5・7・5・7・7で、面白おかしく |
| 明治 1868〜1912年 | 正岡子規 与謝野晶子 石川啄木 | 短歌革新。写生へ。近代短歌がはじまる |
| 大正 1912〜1926年 | 斎藤茂吉 北原白秋 若山牧水 | 近代短歌が広がる |
| 昭和 1926〜1989年 | 寺山修司 塚本邦雄 俵万智 | 表現がさまざまに分かれていく 『サラダ記念日』(1987年・昭和62年) |
| 平成 1989〜2019年 | 穂村弘 岡井隆 | 話し言葉の短歌が広がる |
| 令和 2019年〜 | 木下龍也 岡野大嗣 | SNS。スマホから一首 |
※年表は敬称略です。
※時代の区切りの年は、教科書などで広く使われているものです。研究者によって少し違う見方もあります。
まとめ
短歌は、『万葉集』の時代から令和まで、同じ5・7・5・7・7でつづいています。
そのあいだに、いろいろなことがありました。
天皇も農民も詠んだ(万葉集)
↓
貴族の教養になった(古今和歌集)
↓
連歌や狂歌が盛んな時代もあった
↓
見たままを詠もう、と変わった(正岡子規)
↓
話し言葉で詠むようになった(俵万智さん)
↓
スマホから投稿する(いま)
5・7・5・7・7を基本とする形は、受け継がれてきました。変わったのは、詠む人の暮らしのほうです。
昔の人が恋や自然を詠んだように、私たちも今日の出来事を詠むことができます。
千年以上、たくさんの人がこの31音を使ってきました。その続きに、私たちの一首があります。